ブロガーの先輩から、「量より頻度」と助言あり。
下書きがいっぱいあるので、徐々に公開していきます。
と言いながら、きょうあった催しから。。。
あおもり回帰1000人会議
要は「移住定住促進」がテーマなんですけど、はて自分はどうだったか?
以前にも書きましたが、私はDJ、アナウンサーになりたいと思いました。
でもなれませんでした。
もう少し細かいことを。
なりたいと思ったのは小学生の頃からです。でも、両親にはいい出せませんでした。
「コネがないからダメだ。無理だ。」
中学3年の頃、父にカミングアウトして言われたのはこの言葉でした。
それでも説得し(これも深~い背景がありますが)、マスコミに多くの卒業生を出し、偏差値もそれなりに高い大学に行き(これも父を説得させるために必要だったのです)、それも1回受験で落ちて東京で1年浪人させてもらい、「結果」故郷の青森県で就職しました。
以前、青森県のテレビ局に働きながらも密かに他局受けてましたって書きました。
青森がいやだったのではないのですが、やりたい仕事をしたかったのです。
組織の異動では変えられない。どの地でもよかったのです。当時は。
先日、ある大学生の就職の相談に乗りました。
相手の話を聞きながら、自分はどうだったかな??と当時を振り返ってました。
既になりたい職業は明確で、大学のサークルもアナウンス研究会。
大学3年から東京アナウンスアカデミー、早稲田マスコミセミナーに通い始め、マスコミとの縁を少しでも作りたくて、複数の新聞社のアルバイトもし、DJオーディションも受けたし、とにかくつながりやチャンスを掴みに行った日々。
どれで就職試験はといえば、アナウンサーになるとしか思っていないので、募集があれば、青森どころかいろんなところへ。ある程度の段階までくれば、交通費を出してもらえるけど、ほとんどはチープな旅行です。
別に望む仕事ができればどこでもよかった。
青森でなきゃダメとか、Uターンとかっ考えてなかった。
アナウンサーになりたいという人は他にもいて、どの局でも一緒になります。
もうライバルというより「戦友」ですね。
次第に一次試験、二次試験を通過し、カメラテストや役員面接まで行けるようになり、、、でも結局ダメダメでした。
アナウンスアカデミー時代にあることを指摘されていました。それがコンプレックスでした。
斜視なのです。カメラを見るときに、にらみつけた感じになるのです。
カメラテストで選外になり続け、テレビは向かないな~と思うようになり。
一方、ラジオ局を受けても、同じ声質が既にいるのでいらないとこれまた選外に。
というところで、ちょうど青森県で第3のテレビ局の募集の情報が入ってきました。
職種を細かく選ぶことができ、私は「記者職」を選びました。
テレビは向かないけど、営業よりは取材に関わりたい。
新聞社でアルバイトをして、取材記者の皆さんの仕事ぶりも見ていました。
記者レポートなら、顔形や目つきを言われないで済むし、喋りは少しだけですが自信はあったし。。。
一期生大量雇用という好条件もあり、内定を得ることができました。
「保険」はできた。さあさらにがんばるぞという段階で、親から言われました。
「もうやめてくれ。」
後編に続く。。。